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バレエという総合芸術を通じて、 自分で気付く力、自分で人生を切り拓く力、自分で考える力、そして豊かな感性を身に付けることができます。

大人から子供まで。一度バレエレッスンをあきらめた方、バレエを通じて身体のケアを考えている方などなど。

まずは、リラックスしてバレエという素晴らしい世界を体験してみて下さい。

ブルージュの祭り

バレエ作品の一つに 『ブルージュの祭り』 というものがあります。

あまり広くは知られていない作品で、情報も少ないのですが…

先日、ようやく動画を見つけました!

Twitterで「ブルージュの祭りの動画を探しています」とつぶやいたら、多くの方々がリツイートして下さり、
およそ5分で発見!ソーシャルメディアの力を感じました(笑)

さて、こちらがその動画です。



音楽はパウリ。
振り付けはブルノンヴィル。

ブルノンヴィルらしい細やかな足さばき。
大きな技はあまりありませんが、美しく可憐なパ・ド・ドゥです。

女性のヴァリエーションが2つ入っているのが特徴的で、かなり体力勝負だなという印象を受けました。

派手な技がない、要はあまり見せ場と言えるような見せ場がないので、コンクールなどの競技的な場には
不向きな演目かもしれません。

実際、コンクールの課題演目に入っていることはほとんどありません。
マイナーな作品だからとも思いますが、やはりこれぞという技があまりないからかもしれません。

でも、改めて見てみると素敵な踊りだなと思いました。

特にラストのポーズが、とても印象的。
普通、バレエのポーズを取っておしまい、というかたちが多いのですが、この演目は男女がひっそりと寄り添うように
終わっています。

なんとも奥ゆかしい感じ。
こういうの悪くないと思います。

派手な技モノが好まれる傾向にある昨今、バレエの魅力を再確認させてくれる演目だなと感じました。

バレエの魅力は本当に奥が深い。
一生かけて取り組んでも、まだまだ足りないという気がします。

そんな奥深い世界に身を置いている現状、もっともっと勉強しなくては…!と奮起する今日この頃でした。
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オリジナルの感覚〜体性感覚のお話

日々、身体を使って活動している私たち。

今日は「肉体」を感覚面から考えてみたいと思います。

そんなわけで、今日は「体性感覚」のお話。
ちょっと耳慣れない言葉かもしれませんが、しばしお付き合い下さいませ。

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ヒトの"意識"を構築する要因の一つに、「体性感覚」があると言われています。

体性感覚とは生理学や医学の用語で、
皮膚感覚、深部感覚、内臓感覚を指します。

例えば、熱い・冷たい・痛い・寒い、など私たちが身体で感じる刺激や、
筋肉や内臓の動きなどといった内的な感覚といった、
身体が感じる刺激のこと。


この肉体を通じた知覚、つまり【体性感覚】があってはじめて
私たち「ヒト」は、人としての意識を持つことができる、ということです。

意識を明確に定義付けることは極めて難しいので、
ここでの言及は避けますが、意識をごく簡単に説明するならば…

「認識し、思考する心のはたらき。
 感覚的な知覚に対して、純粋に内面的な精神活動。」

となります。


内面的な精神活動。
つまりは「心の活動=意識」。

ざっくり言うならば、痛いよーとか、熱いなぁ!とか、
そういう肉体的な感覚があって"意識"が確立されていく、ということです。

身体の感覚なくして心のはたらきなし、といったところでしょうか。

---------

さてさて。
ここである一つの問いを。


コンピュータに意識が持てるか?


SFなんかでわりとよく用いられるテーマ。
実はこの単語を知ったのも、SF小説でした。

知能を持ったコンピュータが人間を凌駕し、破滅へと追い込んでいく…
ありそうななさそうな、という話。

肉体の感覚から意識が生まれる、ということを絶対的な解とするならば、
コンピュータに意識を持たせることは、事実上不可能です。

なぜならば、コンピュータには【体性感覚】を持つことができないからです。


学習機能はプログラミングの問題であり、ある一定のアルゴリズムに基づいて
機能しているので、これは一見知能のようでもありますが、意識とは異なります。

"意識"の有無は、人間であることを根源的に考える要素でもあります。
また、"意識"というものをどう捉えるかによって、人間とは何か?を
問うことでもあるのかも・・・

と、思考を巡らせてみたり。

------

ヒトの意識を作り上げていく【体性感覚】。


この【体性感覚】は極めてオリジナルです。


人によってそれぞれに違います。

例えば、外気温は同じでも、それを「暑い」と感じるのか「寒い」と感じるのかは、個々に違いがあるからです。

仮に気温15度で、シャツ1枚でOKなのか、それじゃ寒いと感じるのか…
そこには決定的な個人差が生まれます。

そういう意味で、極めてオリジナルなのです。

そして、自分と寸分違わぬ同条件に身を置いたことのある人間は、この世に誰一人としていません。
生まれてから今まで、すべての気候・温度・湿度・日照などを共有した人なんて存在し得ないからです。

なので、「自分は唯一無二の存在」ということは、
決して思想的な意味合いだけでなく物理的にも言えるんです。

仮に自分のクローンが作れたとしても、すべての体性感覚を同じにはできないため、
また、経験をすべて同じにもできないため「そっくりな別人」になるといわれています。
もちろん、思考のパターンや行動のパターンは共通点が多いと思いますが、厳密に「自分」にはならない。

そう考えると、今の「自分」って、すべての積み重ねであり、
総和なんだなとしみじみ思います。

---------

さてさて、今日は【体性感覚】のお話でした。


肉体を通じて得られる様々な刺激が感覚として体内に沁みわたり
自らの意識の世界を作り上げていく…これはなかなか興味深いです。

朝起きて顔を洗った水の冷たさとか、お昼ごはんのいい匂いとか、
外の風や雨、シャワーの温かさなども、自分の肉体への刺激です。

そういうことって、普段は取り立てて気にとめないけれど
案外大事なことなんじゃないかなと思います。
特別なことだけが身体を作るのではなく、日々を大切にするだけで
自分の体に対する感覚も変わっていくような気がします。

研ぎ澄まされていく、というか。

日常って雑事に流されておざなりになりがちだけれど、
できるだけ丁寧に生きたいなと、思うようになりました。

肉体感覚が研ぎ澄まされて鋭敏なのって、素敵ですよね。

そんなことを、ふと思ってみるのでした。
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花筏 〜はないかだ〜

先日、家族が近隣の自然公園で珍しい植物を見つけてきました。

それが、こちら。

花筏(植物)


これは 『花筏(はないかだ)』 という植物。

葉っぱの真ん中に、つぼみができ、花が咲き、そして実になる…という
すごく珍しい形状をした植物です。

この葉っぱの真ん中にちょこっと乗っているもの、これがなんと花なのです。

ハナイカダ(花筏、Helwingia japonica)はミズキ科の落葉低木。
北海道南部以南の森林に自生する。葉の上に花が咲くのが特徴で、別名「ヨメノナミダ(嫁の涙)」。
wikipedia参照)

花筏、というと、水面に花びらが浮かんだこういう情景を思い浮かべる方が多いと思います。

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水面に浮かんだ花びらが、まるで筏のようにたゆたう…
そう、この植物『花筏』は、この情景が名前の由来になっているのだそうです。

風流な名前ですね。



ともあれ、この『花筏』。
見ていると、すごーく不思議な感じがします。

葉っぱから直接花が生えてる!というような、ミステリアスな雰囲気。

本来、植物は葉直接的に花が付くことはなく、この場合、進化的に花を咲かせるための軸が、
葉の主脈と癒合したためにこの形になったと考えられているそうです。

花筏の実は食べると甘いそうで、葉っぱも食用として用いることができるそうです。

花筏。落葉性の低木で、高さは2m程度。
花が咲くのは春なので、この姿を見られるのは季節限定です。

GWに近隣の公園などにお出かけの際には、ぜひ探してみてはいかかでしょうか?

…ということで、今日は『花筏』のお話でした♪
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「当事者」の時代

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http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334036720

3月半ばに出版された、この本。
いつも愛読している佐々木俊尚さんの新著『「当事者」の時代』。

新書にしては分厚い465ページ。
ずしりと重たいその本は、すでに存在自体が何かを訴えているような気さえしました。

読み終えて、しばし。
いつもは読み終え次第、感想をブログに書いていたのですが、今回ばかりはそれがすんなりとはいかず、
こんなにも時期を経ることとなったのですが…。

何故ならば、すぐに感想や意見、あるいは答えが見つかるようなものではなかったから。
それはこの本が今まで私が触れてきたどんな種類のものとも異なっており、
またどんな類型も類似物も見られないという意味において、存在感が圧倒的だったから。

それはつまり、唯一無二の存在価値をもつものだ、ということ。

これからのジャーナリズムのあり方、そして我々自身のあり方、そして自分という人間の立ち位置を
非常に鋭く厳しく見つめさせられる一冊、揺るぎない力のようなものを私は感じました。



素晴らしくスリリング。
読み手の感情を巧みに手繰り寄せていく筆力。

いつも感じることですが、佐々木さんの本は構築力がものすごい。
今回は特に一つごとの章が長いのですが、読者の緊張感を損なわず一気に読ませてしまう力を感じます。
史実や事実の基盤が確固たるものであることは言うまでもないのですが、
今回の本はとりわけ基盤の厚い、言うなれば最高に良い意味での堅牢さを感じました。

この本のニュアンスを私なりの言葉に置き換えるならば
「抽象化された最高のリアリスティック」。

現実(3次元世界)から抽出された事象が、2次元の文字というビットに置き換えられる時、
そこには必ず次元をまたぐ差異が生まれます。

でもそこをいかに乖離させず表現に落とし込むのか・・ということは
「読み手」と「書き手」を結びつけるという意味で、
【本】という存在における非常に大きなテーマだと思います。

この本の中では自身の体験と史実に基づいた様々な導線と
そこから導き出される最後の結末への、太く強くしかしそれでいて柔軟でしなやかな流れが感じられ、
リアルな現実世界が、こちらにも皮膚感覚として伝わってきた感じがしました。

そしてそれは、客観的な視座を伴いながら見事な筆の力ですくい取られ、
さらに様々な論考やさらにビジョンへと移しこまれている。

文字列になった言葉たちは具体的な現実世界から切り離され、抽象化され2次元となります。
それはもう、どうしたってそこから逃れることはできない。
その2次元情報からいかに現実を浮かびあがらせられるのか。

真実と乖離しないように。

でもそこには書き手の「存在」が噛んでくる。
書き手が誰かの立場になったとたん、当事者性は失われてしまう。
それはもう本当の意味でのリアリティを失ってしまう。リアルな輝きは立ち消えてしまう。

でもこの本では、事実と我々(読者になり得る不特定多数の人々という意味で)とが、シームレスにつながり、
それぞれの「私」の立ち位置から、この本の中に描かれている「事実」を、まさに「当事者」として考え得る
仕組みになっている、そういう意味で読み手にとって最高にリアリスティック。

それが、先に述べた「抽象化された最高のリアリスティック」と私が感じた理由です。


リアリスティック。写実的。

私が言うこれは、書き手が写実性を失わずに描いているということももちろんですが、それが読み手にとって
いかにリアルなものとして受け取れるかということを意味しています。

事実を歪曲せず描写していること、揶揄したり、誇張したりせず、的確に伝えようとしている姿勢…
しかし、それ以上の驚くべきリアルさ。
それは「私」にとっての、そう、読者にとってのリアルさが2次元空間から立ち上ってくるリアリティ。

これはただ単純に「情景が想像できる」とか「目に浮かぶよう」とかそういう類ではなく、
もっと包括的に捉えたところでの「リアル」、その「リアル」=「当事者性」ということ
なのではないか、と感じました。



事実、というのがどこまで「現実味」を帯びていくのか…
その現実は、どこまで真実に迫れるのか。
それは個々の立ち位置によって大きく異なってくるところ。
事実の羅列だけでは真の意味での「現実」を描き出すことはできない。

そう、真実に辿り着くことはできません。

そこで極めて重要で、しかし極めてシンプルで、そして明快な「解」としての「当事者性」という言葉。

『当事者の時代』という本は、高き山の頂に登るが如く、
読者を「当事者という立ち位置」という山の頂に導いていく一冊なのだと私には感じられました。

この一冊は『当事者性』ということを内容の大きなテーマに据えながら、
そして本そのものが「当事者」としての立ち位置を屹立している、
そして先に述べたように、私達に「当事者」という立ち位置を用意している、
そんな三重構造的な感じがします。

過去から未来までの様々な事象。そこからマスメディア言論の構造を見事に分析し、未来への道を描いた一冊。
そこにはきっと佐々木さんが目で見、耳で聞き、肌で感じたことが見事に融和している。
それは決して「主観」ではなく、かといって「客観」でもない。

すなわち「当事者」としての立ち位置により、今、ここにこうして一つのかたちになっている。

ああ、こういうことなんじゃないか、と、私は思いました。
ジャーナリズムって、こういうことなんじゃないか、と。

本当にシンプルで、でも非常に難しい一つの答えを
この本は明確に提示しているのだと思います。

それは、ジャーナリズムというものの当事者性。
まさに「ジャーナリズムという手法における言論のあり方」をこの本は提示している、そんな風に思えたのです。

事実と真実の融和。

こういうふうに書きたい人、表現したい人はきっといっぱいいる。でもそれはとてもとても難しい。
現実からの乖離は、避け難いものだからです。
でもそれを「当事者性」という一つの問いと答えを以て、この本の中で明快に切り開いた。
私にはそんな風に思えてなりません。

「当事者性」

これは一つの問いと答えが、いつも表裏一体になっているもののように感じます。
常に問い続けなければならない、そして常に答えを探し続けなければならない。

それが戦い続けなければならない、ということなのかもしれません。

誰かに戦いを委ねることはできず
誰かの戦いを請け負うこともできず
誰かを戦いに巻き込むこともできず

それでも、私たちは進み続けなければならない。

でも、私は「自分」というものを見つめ直して、戦い続けていきたい、と強く思いました。
決して、簡単じゃない。
でもそうしなければならないんだと。

できるだけ多くの人に手にとってもらいたいと願います。
そして今この時代、たくさんの方々に読んでもらいたい本だと思います。
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価値観と世界観

このところ、「価値観」という言葉をあまり耳にしなくなった気がします。
もちろん言葉それ自体は存在していますし、会話の中で登場したりもします。

しかし、一時期よりも「価値観が合って云々…」とか「価値観の相違で…」という言い回しが減った気がするのです。


価値観。
物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断。

単純にいえば、「物事の判断基準」です。

ちょっと前まで、この「価値観」はすごく大きくて重要なテーマでした。
例えば、結婚などにおいても「価値観が合うから」などといった理由が挙げられていましたし、
人と何かを行う際にも「この人とは価値観が合う、合わない」ということの基準値が、
ものすごく高い位置付けになっていたと感じます。

価値観とは、極めて個人的な判断基準でありながら、もっとマクロ的な見方をすれば、
自分が属しているコミュニティー(もっと広義で言えば社会や国)によって、ある程度決まるとも言えます。

個々人の価値観というものは、「社会の枠」の中である程度の定義付けがなされ、
その中から個々人が取捨選択し、それを誰かと照らし合わせている、そういうものでもあるのです。

しかし今や、中間共同体的なものが崩壊し、一人ひとりがより「個」としてバラけつつ、
より大きな「世界」と繋がる…情報も、流通も、「個」が「世界」と繋がる、そんな時代です。


そして、旧来の「価値観」という判断基準に変わり、
「世界観」という視点が台頭してきた、そんなふうに感じています。


世界観。
世界についての統一的で全体的な理解。

作品世界のような抽象的な意味づけになることも多い言葉ですが、私はこの「世界観」という言葉は
いずれ「価値観」のように、個々の判断基準のような意味合いで広く一般化していくような気がしています。

それは、世の中を、つまり「世界」を個人レベルの視点で広く見渡していく必要があるからですし、
すでにそれは小さなレベルにおいても始まっているからです。
グローバルな視野という意味だけでなく、自分自身が「どう生きていくか」という卑近な事柄についても、
例えばそれは「明日、何を食べるか」などといったごくごく個人レベルの事柄にも、
「世界観」はいずれ必要になってくるでしょう。

それは何に価値を見いだすか、という「価値観」とも言えるわけなのですが、
かつての「価値観」の意味とは、やはり少なからず変化している、
何故ならば、いまは「価値基準」となりえる"基準値"が分散し、それぞれに細分化され、
個々が世界とダイレクトかつシームレスに繋がっているからです。

そこでは新たな「世界観」というモノサシで、自分のいる世界を見渡していかなければなりません。

それはもしかすると新たなカタチの「包摂性」を生みだしていくのかもしれません。
それは意図的に包み込む、包摂していくというよりも、「世界観」という大きな視点に包まれていく、
ある意図や意志、意味付けによって形成されるようなものではなく、「世界観」を共有するもの同士が集合し、
その「世界観」に包摂されていく、そういうカタチ。

自然発生的包摂性、というか。
包摂性を「世界観」という視点により再定義する、というか。

このあたりは、まだうまくまとまりませんが…。

いずれにせよこれからの時代、自分がどう「世界」を見渡していくのか、
というのは極めて重要な課題ではないでしょうか。
明確な、例えば「解」のような「世界観」が、どこかに提示されているわけではありません。
いずれそれが現れるにせよ、そうでないにせよ、自分なりの価値基準は必要です。

自分を見失わないためにも、自分なりの「世界観」を構築していきたい、そんな風に思います。
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